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第35期(2017〜2018)
  
  今期テーマ :
 「初心に帰る」
 〜勇気と判断と洞察〜
目標 :   考え合う友になること
 5月例会テーマ :  「日本の心を楽しむ」
 
 インスピレーション
 遊びをせんとや生まれけむ たわぶれせんとや生まれけん
 遊ぶともの声きけば わが身さえこそ動がるれ
 -平安末期の今様から-ともは、元歌では子供
 ITCも遊びなるらむ…)     −K.K.-
 
ビジネス(役員席) 5月のランチ   インスピレーション
 
プログラ プログラムリーダー  -K.O-
教育 残していきたい大和言葉    -H.Y-
1:日本人的脳とは
 親から子供への言葉より作られる。
  自然界にある音を日本人は声として聴いているが西欧の人達は雑音として聴いている
 東京医科大学  角田忠信教授と湯川秀樹博士の対話
日本語脳は人類の多様性増大に貢献しているわけで、「虫の声に耳を・ける文化は人類全体の文化をより豊かにする独創的なものと言える。
我々が受け継いだこの「日本語脳」の違いを意識的にきわめ、その独創性をより良く発揮していくことは我々日本人の全世界に対する責務ともだ言えるだろう。
 2:日本語には3種類ある
 * 大和言葉 いろ  はじめる やま   うなばら  め  かみのけ
 * 漢語   色彩   開始   山脈   海洋   眼球  頭髪
 * 外来語  
カラー   スタート   マウンティン オーシャン   アイ   ヘア
 3:大和言葉の特徴
  * 身近なものについての言葉、感情についての言葉
  * 大和言葉は母音(a,i,u,e,o) が付くのが特徴 Furusato Musinokoe
  * 耳から心へ直接届く
 4:漢語の特徴
  * 同音異義語が多い
  * 視覚が関わる作業を経て心に届く
まとめ 
  *大和言葉は日本で生まれた言葉。先祖の息遣いが感じられる文化財
  *大和言葉の響きはバラードのよう。伸びやかな母音に豊かな味わいがある
  *大和言葉は耳から心へ届き、漢語の多くは目で理解して心に届く
  *懐かしい、美しい言葉を若い人に伝えていくのは大人の役目
                              
                  参考資料 「日本の大和言葉を美しく話す」高橋こうじ著
1.江戸時代の写真が見つかったというニュースより            -K.F-
  江戸の中でも、名にし負う日本橋の上から、写真を撮っている方を珍しそうに眺めている人だかり、洗濯物が風にゆれている様、しもたやの鉛色の甍(いらか)の波や塀に描かれている相合傘の落書きなど、失われた歴史、江戸時代の最も古い写真が出てきた。その写真はデジタル化により色付けされ150年の時を超え江戸の町が蘇ったという話は耳新しい。
 
また、オリンピックの工事場より木造りの水道管・古(いにしえ)の都市計画の図面も見つかっている。
三河の国を治めていた徳川家康が豊臣秀吉の命により江戸に赴き、最初、目にした江戸の様には、
いたく失望しつつも、6万人から100万人の都を築くという勲(いさお)をたてた。
 
 家康の優れものの大仕事の一つは江戸城の周りに2重3重と、らせん状に濠を巡らせ、城を守る、水運で荷揚げや、物の流れを促(うなが)し、暮しを豊かにしたこと。
濠の石積みには地方の侍が携わり、何処をどの藩が受け持つかの区割りは、くじ引きで決められた。
100万個を超える石が使われ、石には細川家や、熊本の加藤家、島津家など40以上の藩の家紋を今でも見出すことができる。
細川家は、日本橋あたりの緩い(ゆるい)地盤、あまつさえ難しいところを受け持ち、篠突く雨で、積石が崩れたが「意地がなければ侍ではない」と、藩主も家来も手を携えて、やり遂げ、勲(いさお)をたてた。
江戸時代に入り、侍は「刀を持った戦(いくさ)」の代わりに濠をつくり、水を引き、命がけの戦をした。

 ますます人が増え、水が足りなくなり、多摩川上水より43q離れた江戸まで、水路を通す大仕事への白羽の矢が、庄右衛門、清右衛門兄弟に立ち、瞬く間に1年足らずで全うした。
そのお陰で、江戸は100万人の大江戸へと育ち、浮世絵にも水の絵が多く描かれているように、江戸は石と水の都に育った。
                ・・・(スピーチの中の大和言葉は?どれでしょう。)
2.大和言葉で美しく 「最初の一人」                        -Y.M- 
  「大和言葉で美しくスピーチを」の役にいささか困惑した私。何を以て「大和言葉は?」の議論は、
さておき主旨も時代も自分なりの「大和言葉」についてのスピーチを。
 
 時は「万葉」大和のまほろばの、仲良く、楽しく、美しく語り合うより「邪魔な輩(やから)には、手っ
取り早く死んでもらおう」の時代のこと。「ことば」とは、最初は単なる情報伝達のための記号にすぎ
なかったものが、族の歴史の中で磨かれたもの。そして、日本において磨かれた「ことば」が、芸術の
域に達した、その時代に「ことば」を「語った」最初の一人」と言われる柿本人麻呂について。
 
 柿本人麻呂は優れた短歌を多く残しているが、本領は「長歌」にあるといわれている。「長歌」とは、
五・七の句を繰り返し最後は七の句で終わる形式歌。その中の一つの最後のごく一部を紹介。

「わが立ち聞けば 玉襷
(たまたすき) 畝火(うねび)の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉鉾(たまほこ)
道行く人の一人だに 似てし行かねば すべをなみ 妹
(いも)が名喚(よ)びて 袖(そで)そ振りつる」

 昨今の恋愛アニメ映画など、青ざめるほどの迫力で胸に迫るものがある。
その人麻呂だが「万葉集」によれば、唯の宮廷歌人で、任地の石見で亡くなったという説が一般的。
しかし、その「万葉集」に載る辞世の歌に 「自ら(みずから)痛みて(いたみて)作る歌」とある。
更に、約百年後に天皇の命により編纂された「古今和歌集」において正三位(おおきみつのくらい)
柿本人麻呂は歌聖であったと、わざわざ名誉回復がなされている。
それらから、柿本人麻呂は、実は、水死それも処刑されたのだとする説もある。人麻呂が天皇寄り
であったこと、歌を通じて影響が大きかったことなどから、時の権力者「藤原不比」等に疎まれ、
処刑されたという説に私は深く納得したが、真実は、歴史のロマンの一つとしておきたい。最後に、
人麻呂と、その妻の「短歌」を紹介

 柿本朝臣(あそみ)人麻呂、石見国にありて臨死(みまか)らむとする時自ら板見て作る歌
「鴨山」(かもやま)の 岩根し枕(ま)ける われをかも 知らにと妹(いも)が待ちつつあらむ」

 柿本朝臣(あそみ)人麻呂の死(みまか)りし時妻 依羅娘子(よさのをとめ)の作る歌
「今日今日(けふけふ)と 我が待つ君は 石川の 貝に交じりて(まじりて)ありやいわずやも」

 ここまでスピーチして私にも一つだけわかったことがある。
「大和言葉」も、これほど古いと、耳で聞いただけではわからない。日本の「ことば」とは、
そもそもは、文字に書かれ、それを目で読むのにふさわしく、より美しいのかもしれない。
 3.「 大和言葉」 1.手紙 2.小倉百人一首 3.大和言葉だけの歌詞の小学唱歌  -Y.W- 
1.手紙
  冒頭の 「拝啓」の代わりに、大和言葉を使用して、今の季節の言葉を使って
  例えば 「日増しに 初夏を感じるこのごろ」 と書き始め、
  終わりの挨拶は 「向暑の折、くれぐれも御身 おいたわりください」 で結びたい。
2.小倉百人一首
  幸いに、白洲正子著書の「私の百人一首」愛蔵版を持っていた。(本を回覧)
  百人一首に興味を持った、きっかけは、高校3年生の時、担任より、お正月、ご自宅での
  「かるた会」に招待され、参加するため、国鉄可部線の通学時間に100種の和歌を一生
  懸命暗記したこと。家族でのかるた会では、父は常に読み手で、母が、いつも一早く
  取っていた歌は次の2首だったと思う。
60番 「大江山 いく野の道の 遠行ければ まだふみも見ず 天の橋立」 小式部内
 
12番 「あまつ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」 僧正遍昭  
  私の好きな歌は次の3首で、齢(よわい)を重ねても変わらない。
40番 「忍ぶれど 色に出でにけり 我が恋は ものや思ふと 人の問ふまで 平兼盛 
56番 「あらざらむ この世のほかの 思い出に 今ひとたびの 逢うこともがな 和泉式部
50番 「君がため 惜しからざらし命さへ 長くもがなと 思ひけるかな   藤原義隆 

3.大和言葉だけの歌詞の小学唱歌・・・・作詞・作曲 高野辰之助
  「ふるさと」 「夏はきぬ」 「朧月夜」 「たきび」 「春がきた」 「もみじ」  
  齢(よわい)を重ねても口遊(ずさむ)ことができる、心に残る美しい大和言葉

  我が母校の校歌(一番のみ) 作詞・作曲 高野辰之助
  紅葉の谷を 左に見 鶯谷を 右に見て 我が学園の あるところ 眺め多(さわ)なり 清らなり

  次世代につなぐため、手紙やメールで大和言葉を、積極的に使っていきたい。

例会風景 プログラム参考資料 例会風景
  
  スピーカー

次回360回例会 2018年6月21日(木) 13:15〜15:30
広島アンデルセンデンマークルーム






2018.05. 例会